2013年12月14日土曜日

瞑想における半眼の世界


私が半眼を体験したのは、もう10年以上前のことだが、そのときの感覚は、まるでついさっきのことのように、はっきりと覚えている。瞑想のクラスでは私が半眼に至ったときの技法を教えているが、瞑想は、これをやればこうなる、という直線的な考えの通用しないものである。私が伝える技法は、半眼に至る手法そのものではなく、瞑想を行う上での一つの道しるべとなるようなものだ。

瞑想はそのほかの多くのトレーニングと異なり、後退することがない。行えばその分だけ経験が増し、しばらくやらなかったからといって下手になることはない。経験を積むと、瞑想でしか味わいようのない感動的な瞬間が訪れる。それはなににも代えがたい喜びであり、人間の意識の底知れぬ深さを思い知る瞬間でもある。半眼はその一つである。


その日、私はいつものように、いつもの自分の部屋で、いつもの壁に向かって、目を閉じた。真昼のことだったので部屋は明るく、窓のある左半分は日が差して明るかったように覚えている。目を閉じてすぐにいつもと違うと感じたのは、頭がさえて活発に働き出し、全く瞑想状態に入れそうになかったことだった。そして、目を閉じて一分も経たないうちに、座っていることに飽いてしまい、じりじりと身体を動かしたくなるような感覚になっていた。

全く意に反する始まりだったが、そこで、私は瞑想を安定して続けるためのいつもの技法を使うことにした。身体のどこかの部分で左右を感じてバランスを取り、両方の感覚を手放す。そうすると、身体感覚は希薄になり、自然と自分の中心に意識が集まる。それを繰り返すことで、中心に幾多の点があつまり、しっかりとした軸を形成するようになる。やがて、軸がはっきりとして、身体がぶれなくなり、それは意識が芯の部分に集約されて安定化することにつながる。このプロセスを繰り返していくと、無駄な力が落ちて、瞑想するのにほどよい意識の状態に入っていくことができる。

10カ所ほど、左右のバランスを取り、力を抜いていくと、期待とは裏腹にますます感覚がさえてきた。力が抜けたときに感覚がさえるのは気枯(きがれ=気が枯れること)の逆の状態で、本来は肉体を動かすことに向いているが、一度座ったのだから、今日はこの技法でどこまで行けるかやってみようという気になった。

このプロセスが100カ所を超えると、自分の中心が安定し、ようやく座っているのが楽な状態になってきた。身体の軸は無数の点で構成されて、中心にすとんと力が落ちていて後の部分は脱力していた。しかし、依然として頭はさえていたし、いつもの瞑想とは違った意識の状態を維持していた。

200カ所を超えると、身体は中心を残して感覚が宇宙の中に消えていくようだった。しかしそれでも頭はさえていて、まるで自分が頭と芯だけの生き物になったかのようだった。

そこからさらにプロセスを進め、頭部、顔の左右を細かくとっていった。「もうそろそろやるところがないな。」と思いながら目の周りの筋肉を緩めた瞬間、身体に変化が起きた。

私は、目を閉じていた。つまり、目を閉じて瞑想を始めたし、目を途中で開けることはなかった。が、下から、なにか棒のような突き上げる力が起きてきて、私の上まぶたを、ゆっくりと押し上げていった。目をじっと閉じているのに、まぶたの隙間から光が入ってくるのを感じ、私はほんの一瞬、動揺したが、その先への好奇心からか、意識がすっと小さくなって自分の身体の中から外を眺めているかのように感じたからか、まぶたがゆっくり開いていく様子を静観していた。

下から突き上げる力は衰えず、着実にまぶたを押し上げていく。次第に視界が開けてくるのがわかった。そしてその突き上げは、両目が半分開いたところでぴたりと止まった。

私の眼前には、自分の見慣れた部屋の壁と家具が、緩やかなカーブを描いて遠くに広がっていた。まるで、山の上から魚眼レンズで遙か彼方の町並みを下に眺めているような、そんな光景だった。『なんて美しい光景なんだ』と心から思った。同時に、なんで自分の部屋の見慣れた風景、いつもの壁や家具がこんなに美しいのか、と頭のすみで疑問も浮かんでいた。しかし、自分の感覚は確かに、『なんて美しいんだ』と繰り返していた。

自分はなにか山の頂上にいて、それも身体の内側のなにか奥まったところに引っ込んで、そこから目という光の入る穴を通じて自分の部屋を眺めていた。遠くに広がる壁や家具には、なんだか霞さえかかっているように見える。自分の意識では目はしっかりと閉じていたが、勝手に半分だけ開いた目は、自分が今まで想像もしなかったような美しい世界を映していた。山の上の空気の爽快さと、明るい空の明瞭さと、雲のような霞のようなものがかかったヴィジュアルを、いちどきに味わっているような感覚だった。心は軽く清涼感に満ち、身体は山の上に浮かんでいるようであったが、身体の芯は微動もせず、安定を極めていた。まぶたが止まってからずっと、大きな快感の波が、押し寄せ続けている。この世はこれほどに尊く、美しいのか、と感動し続けた。

その意識の状態はしばらくの間続き、私はその間、遙か彼方に広がる自分の部屋を飽きることなく眺め、その情景が織りなす空気感を満喫していた。

やがて、目はまた閉じていき、瞑想に入り、しばらくしてその瞑想は解かれていった。

まるで空気の綺麗な山を旅して帰ってきたかのように、身体にエナジーがあふれ、心は晴れ晴れとしていた。

目に入るのは、いつもの見慣れた自分の部屋の壁だったが、自分が美しく尊い世界にいるということに初めて気がついた。部屋が美しいから美しいと思うのではなく、本来、この世界は存在するだけで感動的なまでに美しいが、普段はそれを思い出すことなく暮らしているということであり、すべてが地球のグリッドの元に整然と配置されていて、どんなものもそこにあるというだけでその美しさを体現しているのに、私はそれまで二元的な視点でその景色を眺めていたためにその美しさを見いだすことができなかったということがはっきりと理解できた。

この世界に理想郷があるとすれば、私たちはすでにその中にいる。自分でやるべきことがあるとすれば、それは、ただ「現在」を握りしめている手を放すことだ。なぜなら私たちは「現在」を握りしめているようでいて、過去や未来やその他のものも一緒に握りこんでしまっているからだ。「現在」を手放したとき、私たちは本来の姿に立ち戻り、その瞬間に初めてこの世界と一体になる。瞑想はその一助となるだろう。