2013年10月14日月曜日

競争の時代の終わり


『早起きは三文の徳』といわれる。これを英語にすると、“Early bird catches the worm. ”「早起きの鳥は虫を捕まえる」となると、ずいぶん昔に教わったように覚えている。しかし、実のところ、私はこの二つが同じようで同じではないのではないかと思っている。
『早起きは三文の徳』ということわざには、その語源についていろいろな説があり、定まらない。それが定まらないのに、こんなことを主張するのはおかしなことかもしれないが、純粋に、日本語の話し手としての感覚でこのことわざを見つめたときに、受け取れるイメージは、早起きした人は三文の徳となるが、早起きしなかった人については言及していないということ。ここでのフォーカスは、「早起きした人」だけである。一方、そのことわざを英語で表現した場合の、“Early bird catches the worm. ”「早起きの鳥は虫を捕まえる」になると、趣が若干異なる。早起きした鳥は虫を捕まえられるが、早起きしなかった鳥は、虫が捕まえられない、ということが暗示されているように私には思える。つまり、日本語のことわざでは、早起きした人は全員が三文の徳が得られる、となり、それ以外の人については何も言及がない、と感じられるが、英語の方の、早起きの鳥は、全員が虫を捕まえ、そうでない鳥は捕まえられない、というイメージがつきまとう。私の考えや言語感覚が浅い故の感じ方かもしれないが、何となく、日本語の表現は牧歌的で、英語の方は競争の原理からくる戒めのようなものが込められているような気がしてならない。

人間の社会は競争社会といわれる。しかし、江戸時代、そんなことを言った人、そんな風に思って生活していた人はどれだけいただろうか。江戸時代は、町もきれいで、住む人は町人も武士も農民も割合と幸せに暮らしていたと伝えらている。もちろん、当時は寿命も短く、災害などもあって大変なこともあったであろうが、私が想像するに、一般的な町人の暮らしは割合とのんびりしていたのではないかと思う。そんな日本でいつからこんなに競争があふれ、声高に勝つこと、相手を打ち負かすことの重要性が叫ばれるようになったのだろうか。世界的に資本主義が広まり、生活が現代的になったので、それに賛同する全員がお互いに競争するようになったからなのか、あるいは、世界的な流れであった帝国主義がアジアに寄せてくるようになって、国を倒したり倒されたりという競争を至上とする主義が台頭したからかもしれない。

日本人は自分のことをナンバーワンとはいわない。でも他の人にナンバーワンといわれると喜ぶ、という記事を見たことがある。ここでは、日本人の内気な態度や、陰では一番を願っているのにそれをはっきり言わない曖昧さのようなものが取り上げられていたが、そもそも、わざわざ競争めいた土俵に上ったり上らされたりして、優劣を判断すること自体が、日本人の感覚に欠如しているものなのかもしれない。

個人的に、人間にとって競争は必要ないと感じる。競争の行き着く先は、戦争かもしれないと思う。本来、生命の存続において重要なのは日々、満ち足りて生活することだが、競争の心理において重要なのは、自分が満足することではなく、誰よりも一番になることだからだ。競争の世界においては、それに参加しないと、他の誰かが一番になり、一番にならなかったものは大なり小なり虐げられるという恐怖感をあおられる仕組みができあがっている。社会にとって、恐怖感をあおられる仕組みは必要かといわれると、それはいらないということになるだろう。ある段階においては、同じ分野で探究するもの同士が切磋琢磨することが社会にとってプラスの刺激になることがあるかもしれない。しかし、それは一時的なことで、常に誰かと切磋琢磨を続けて他を引き離していないといつか虐げられるという仕組みは必要ないように思う。

日本人、外国人を問わず、私がこれまで会ってきた優れた人たちは、決して他人より優れることを目的としたり、トップになろうと努力を続けてきた人たちではなかった。むしろ他を気にせず、常にマイペースで、淡々と自分の思うところを続けてきている人が、特定の分野で大きな成果を上げ、社会に新しい技術や概念などの恩恵をもたらしているように思う。

そろそろ、競争の時代は終わりにしても良いのではないだろうか。熱心に探究を続ければ、いつの間にか他に先んじていることもあるだろうし、また別の時には他が先を行くこともあるに違いない。しかし、そのちょっとした前後によって、お互いが影響を受け、探究を続ける意識が少しでもそがれるようであれば、人生を無駄にするようなものである。人生には、他人より優れているかどうかを気にするほどの時間はない。ただ純粋な探究のみが、自分を本質へと導いてくれる、と、そんな風に思う。