2013年11月13日水曜日

混沌からみた『今』という奇跡



私が混沌に惹かれ始めたのは、小学生のある夏休み、祖父の家でのことだった。いつもなら朝から森に出かけ、ザリガニ釣りや蝉取りに興じるところだが、その日はなぜか留守番のようなことで家にいることになっていた。庭の池では鯉が泳ぎ、水の音と古いほこらのある日本家屋だった。しばらく探検したりしていたが、そのうちに家の奥の、入ってはいけないといつも言われていた部屋の手前にある書架に、ある本を見つけて、取り出して読みだした。

その本は、固い紙のケースに収まっていて、背表紙には『老子』と書かれていた。

シンプルな挿絵と、一ページごとに原文と訳が交互に連なっている、日本風でありながらアジア的な要素が随所に織り込まれた世界が語るのは、宇宙の話やこの世の理について。その世界観に一目で魅了された。中でも、混沌というコンセプトには、意識がしびれる思いをしたことを覚えている。

混沌、すべての始まりと終わり、すべてがそこにある場所とはいったいどのようなことか、蝉の声と池の水の流れる音を聞きながら、一人畳に寝転んで一つ向こうの宇宙をあれかこれかと探していた。

それから10年後、高校生の夏に、私はごく自然に書店の武術雑誌を手にとり、巻末の武術協会や教室のリストから、最も気功を教えてくれそうな団体に電話をかけて中国武術を習うことになる。

気功への興味は尽きず、さらに10年ほどたって、気功科のある中医大学の日本校に学び、医学的な気功から次第に瞑想的な気功に傾倒していく。卒業後は身体を調整する仕事に就いたが、それでもまだ、混沌の姿を明確には想像することができなかった。

そんなこともあって、実際に混沌にある、という体験をしたときは、感慨深かった。混沌という存在を知ってからずいぶんたって、ようやく混沌をみつけた、という感じだった。

混沌にあることは、純粋な喜びと興奮の入り混じったような体験だ。すべてがそこにあるという安堵と共に、探究の一つの旅を終えたという喜びと、なにか背中がぞくぞくするような興奮とが同時にあったのを覚えている。混沌では、自己の意識がとても希薄で、あらゆる現象、可能性のある事象と過去と未来がすべて一つの瞬間に凝縮された状態で存在している。その凝縮される過程で自己は失われていくが、同時にあらゆる可能性が拓かれていくので、そのプロセスを意図的に押しとどめなければ、そのまま限りなく希薄な自己意識に到達する。

自己は限りなく希薄になるが、失われることはない。混沌のなかであっても、自己は存在する。すべてが同時に存在する場所だが、自己が周囲の事象の軸になっている。

すべての事象を均等に感じれば感じるほど現在の自分、今自分がホールドしている(と思い込んでいる)意識と現実はなくなっていく。自分が自分であると思っていることがなくなっていくプロセスを見つめることは、純粋な喜びといえる。

混沌には、すべての宇宙がそこに含まれている。過去も、未来も、自分の想像しうるすべての可能性と、想像を超えたすべての現象がそこにある。

『今』という意識から混沌を見つめると、すべての事象が『今』という瞬間に凝縮されていて密度が高いように思えるが、実際に混沌から混沌を見るとそこにはあらゆる事象が折り重なるようにして、しかしどれも等距離にフラットに感覚で広がる地平であり、高い密度は感じられず、すべての可能性に手が届く、自由な意識の源のようである。

混沌という意識の拡大を体験することは、混沌という無限の可能性のフィールドに戻っていく、という事であるとも言える。

つまり、『今』と思っている現在の自分は元来、混沌の中に含まれていて、自分の意識は混沌の中から連続した『今』を取り出して時間軸に沿わせて順序よく体験しているということでもあるのではないだろうか。

混沌とワンネスは全く違った体験であり、その二つを同一視することはできない。ワンネスはエクスタシーそのものであり統合の頂点であるが、混沌はすべてがそこにただ存在する、という限りなくフラットな状態で、そこで意識の出発地点、存在の原点を体験することができる。ワンネスでは自己が拡大するが、失われることはない。それも混沌とワンネスとの大きな違いかもしれない。

混沌には一切の境がない。過去も未来も、あらゆるアクションとそれに付帯するすべての過去と未来の可能性が、膨大な数の事象としてそこに並列に存在している。

混沌は混沌としているものと思い込んでいたが、実際に混沌にあって、意識を微動だにせずにただそこにとどまっていると、むしろすべてが整然としていた。あらゆる可能性のある事象は自分から等距離にあり、そのどれを選ぶこともできる。

混沌にある状態でほんの少しでも意識を動かすと、自分の意識から同じ距離にあるすべての事象が変化する。人間の可能性はすべてそこにあるが、自分のアクションに応じて、「近い可能性」というのが変化して手の届くところに配列される、というような事が起こる。自分の選択、自分の意識の変化は確実に現実に起こりうる事象に影響を与えていて、その変化は自分の動きが激しくなればなるほど、大きくなっていく。混沌で忙しく意識を動かすことは、まるで幾万枚の画像が早送りで自分の周囲を取り巻いているような感覚であり、それは、混沌(カオス=Chaos)とよばれる雰囲気に似ていると言えるかもしれない。そして、このこともまた人間の意識が現実に与える影響の確かさを表しているように思える。

私たちはもともと、混沌にいたわけであるから、そこからどんな事象を持ってくることができる。私たちの選択は自由意思によっている。昔そこにいたということでもなく、昔も今も選択を続けているということでもない。すべては今、起きている。すべての事象が今この瞬間に起きているということが、人類のこれからの可能性を開く鍵になるのだと思う。私たちには、本来、『今』しかないのである。『今』と共にある事でしか、過去も未来も定義することができない。

混沌は美しい。整然として、一部のすきもない。すべての事象が完璧なバランスで、私たちの考える次元を超越した配列で存在している。そこから私たちは自由意思で自分の『今』を選んでいる。私たちの『今』の後ろには、すべての過去と未来とそれに付帯するあらゆる可能性が控えている。その美しさは、圧倒的であり、その整合性は、唯一無比である。こうして幾十億もの人が、一人一人の『今』を携えて、同じ一つのフィールドを共有していることは、類い希な現象のように思える。混沌に意思があったらきっと混沌自身も、「地球の方ではずいぶん珍しいことが起きている」と思っているに違いない。それでも、今も昔も未来も本来は『今』にしか起きていないわけだから、混沌は私たちがどのような選択をしても、どのような状況にあっても混沌として存在し続ける。『今』が存在する限りは。

この奇跡的な『今』に感謝を捧げる。