2015年11月20日金曜日

コアフローセラピー セラピスト養成講座レベル1京都募集のお知らせ


コアフローセラピー講座レベル1京都受講生を募集します。
東京、仙台に続いて京都でもコアフローセラピー講座を開催します。
12月京都開講の講座はレベル1。骨盤から首までの施術を学びます。
ご希望の方は、tomita@coreflow.jp までご連絡ください。

Coreflow Therapy Training Course Level 1
コアフローセラピー セラピスト養成講座レベル1
講師 富田しょう
180 min x 5回(5ヶ月)
受講料 プライベート講座 190,000円 2名1組 150,000円(分割支払可)

コアフローセラピーは、身体の中心に流れる気の広がりを感じとり、その身体が本来持っている治癒力を引き出すことによって全身を調整する整体法と、遠隔療法、トーニングによる調整法によって構成される総合的な療術です。

レベル1講座で学ぶことは、コアフローセラピーの基礎となる事柄です。レベル1講座では、骨盤から肩までを緩めるための主要なテクニックと、意識の使い方、安全なセッションに必要な全ての手順を習得します。それに先だって、呼吸法や立ち方、力の使い方、地球とのつながり方、エナジー的なテクニックも学んでいきます。

講座の序盤では、コアフローセラピーの根幹となる、PHFR法(Press、Hold、Follow、Releaseのテクニック)、エリア、ライン/ストリームなどの基本的概念を理解し、受け手と地球とのつながりを本来のものに戻していく方法を学びます。コアフローセラピーは、受け手の自己治癒力を最大限に引き出す手技として開発されました。解剖学や生理学の知識は必ずしも必要ではありませんが、人体に関する知識は、施術を助ける手立てになります。コアフローセラピーは、誰でも学ぶことができます。基本を忠実に行い、意識の使い方をマスターし、感性を磨いていくことでより確かな施術を行う事ができます。

コアフローセラピーでは、マッサージテーブルと手ぬぐいの他には、道具を使用しません。コアフローセラピーは技術的にもシンプルですが、その可能性は大きく広がっています。自分の身一つと手ぬぐいが一枚、そして純粋な意識があれば世界中どこに行っても施術を行い、自分の感性を磨き、人体の宇宙について探究することができます。

コアフローセラピーは自分のメンタルとフィジカルを理解し、最良の状態に導く上でとても役に立つ手法でもあります。コアフローセラピーのセラピストとして経験を積んでいくにつれて、何事にも揺るがない自分を手に入れ、しなやかで疲れを知らない身体を手に入れることができます。

コアフローセラピー講座レベル1を学ぶと、骨盤を緩め、膝と足首を調整し、背中全体を調和させ、首と肩の緊張を緩和する方法を習得できます。レベル1の基礎的な技術と意識の使い方をマスターすることで、全身のセッションを行う事ができるようになります。

2015年8月23日日曜日

インナータオプラクティス『完全な静から生まれる動』



インナータオプラクティスは、肉体のたたずまいを作るワークショップである。反復運動による筋肉の増大や、達成感、緊張状態からのリリースによる心地よさなどを狙ったものではない。

インナータオプラクティスでは、自分と地球の関係性を見つめる。肉体は、地球の物質からできている。そういう意味では、地球の内部から噴出するマグマと同じようなものであるといえる。

だが、現代的な生活は、地球と肉体を分断した。肉体は地球を、そして太陽さえも感じることができなくなってしまった。プラネタリーな不感症、それが現代の病の原因である。

インナータオプラクティスは、静かである。静の中にある自分を見つめる時間である。自分の静をただ見つめていると、その中にある生命の躍動を感じることがある。それが気である。それがプラーナである。それが生命エネルギーであり、その流れこそが、肉体を最善の状態に維持している、根源的な働きなのである。

このことを体感すると、人生は変容を始める。

身の回りのあらゆるものの中に生命エネルギーを感じ取るようになる。喜びと悲しみが、どのように渦巻き、この世を流れているかを感じるようになる。

人生とは、奇跡なのだ。これほど多くのエネルギーが集約し、何十億、いや、何十兆もの生命体の関わりの中で絡み合いながら連綿と変化を続けている。そのような奇跡的な星に私たちは生きている。

その奇跡に刮目したとき、あなたの静から動が生まれる。

それはあたかも蕾がある瞬間を境に花となるように、自然な流れでありながら一つの境界を越えてもう戻ることのできない変化をあなたの人生に起こしてくれるのだ。

そこには喜びがあり、光があり、静寂がある。

生という、時にせせらぎのようにざわめき、時に濁流となって轟音をとどろかす川を、あなたは傍にたたずんでじっと見つめることになる。濁流にのまれることも、せせらぎを求めてさまようこともない。

あなたはすべてが奇跡であることを知っているからである。



2015年5月6日水曜日

新生インナー・タオ・プラクティスについて




新しいワークショップ、インナー・タオ・プラクティス~INNER TAO PRACTICE~がスタートしました。

インナー・タオ・プラクティスは、内なるタオの流れを感じ取り、恣意的な力を手放して地球と宇宙の流れに根ざしたしなやかさと力強さを手に入れるための新しい意識と肉体のトレーニングです。個々の習熟度に合わせてワークの深度が変わっていくので、初心者から熟練者までさまざまなレベルで繰り返し参加することができます。

私たちのからだは進化の課程にあり、時代と共に変化しています。インナー・タオ・プラクティスでは、これからの人類のための立ち方、座り方、歩き方を学びます。力を抜くとはどういうことかを体感し、自分に最適なからだのバランスを身につけ、意識の力を日常的に活かすための鍛錬を効果的に行ってゆけるように構成されています。

⒈ コアフロー運動:膝から腰、肩、首の順にからだを捻る運動。しなやかで強い腰を作りながら空気との一体感を感じる運動
⒉ 腰仙ストレッチ:仙骨上方の関節を伸ばし、柔軟で美しい骨格へ導くためのストレッチ
⒊ 背胸頚調息法:背中から胸部、頚部へと空気を送り込み、吸気を肺に蓄えて内圧を感じる特別な呼吸法
⒋ 立禅:気の流れを感じ、地球と一体となって体内の気を整える伝統的功法
⒌ 鶴の呼吸:首から腰までのなめらかな動きにフォーカスしながらゆっくりと行う呼吸法
⒍ 意念のワーク:意識の力を用いて気の球を動かすワーク
⒎ コア瞑想:自分を空っぽにして魂の根源、コアエッセンスとつながるための瞑想法
⒏ タオ瞑想:あらゆる力を手放して究極のリラックスへ向かい、時間のない領域にたどり着くための瞑想法

このワークを続けることによって、腰周りの持久力が増し、安定してグラウンディングできるようになります。また、声が大きく通るようになり、免疫力が上がります。胴体はよりコンパクトに、脚はより長くなります。感情を冷静に見つめ、感情エネルギーの高まりをからだのエネルギーに変換できるテクニックを学べます。本来の肉体のバランスに戻って、意識とからだが一体となった状態で全力で行動できるようになります。日常的に意識の力を制御し、リラックスした状態で自在に意識の力を使うことができるようになります。1分間で精神と肉体の回復ができるようになります。本当の自分の姿を見つめ、今に必要な事を行えるようになります。

インナー・タオ・プラクティスは現在、京都、東京、仙台、神戸で開催しています。毎月の京都、東京での開催日程や料金などについてはMANACOAのウェブサイト http://manacoa.co.jp をご覧ください。それ以外の開催(不定期)については以下のウェブサイトをご覧ください。

京都、東京 http://manacoa.co.jp/
仙台 http://www.saramarielle.com/ 
神戸 http://curio-live-design.com/





2014年9月16日火曜日


永遠でない景色に身をゆだね、今という瞬間に沈み込む。

常々、実践する者でありたい、そう思ってきた。
時に、目に見えないものを駆使する事もあるが、その存在は自分にとっては確かなものである。まるで薄紙を一枚ずつ重ねていくように、この20年間、自分の感覚で検証し確実に再現できるものだけを積み上げてきた。

自分が施術者として受け手と対峙するときには、自分は宇宙に浮かんでおり、受け手のからだと自分の意識だけがそこに存在している。そして、宇宙にすべてを明け渡したとき、一筋の道筋、流れ(あるいは奔流のようなものかもしれない)のようなものが現れる。それは、ひょっとするとタオのようなものなのかもしれない。私はただその流れに従って、縦横無尽にからだを動かしていく。それは、宇宙とのダンスであり、受け手、つまり、素晴らしく宇宙的で繊細で高性能な人間のからだとの静かで躍動的なダンスでもある。

人体は美しい。その精巧さ、完全性、宇宙との相似性を目の当たりにする度に息をのみ、改めてこの世界を作った大きな力に対する畏敬の念を抱く。からだが本当の力を発揮したとき、多くの人は、自分自身の力に驚き、同時にそうした力が発揮されることによる自由を感じるのだと思う。地球上のすべての人は健康で幸せな生活を送る魂と肉体を宇宙から与えられている。しかし、私たちはまだ開いていないいくつかの扉を開ける鍵を見つけていない。

思い起こせば8歳の頃、毎晩のように母親にヨーガの指導を受けていたが、ヨーガはその当時はとても人に言えるような事がらではなかった。今ではヨーガをやっているというと健康志向であると思われるほどに社会は変化している。同じようなことが近いうち、瞑想に起こるだろう。魂における扉の一つはこれで開かれる。

次の肉体の扉はDNAだ。現在、DNAの解析により1000年前に自分がどこの村にいたのかわかるような、地理的に人口構造をトラッキングする技術が開発されている。こうした技術と情報の集積および解析により、自分が肉体的にどのような特徴を持ち、どのようなことに気をつけるべきかがよりはっきりとわかるようになる。

私は、さらなる次の扉を開ける鍵を見つけるために、また薄紙を重ねていく。その扉がどのようなものか、それについてはまだ輪郭がぼんやりとしていて、うまく説明することはできない。しかし、人間という魂と肉体が一つになったものと、宇宙における魂と肉体が一つになったものとが、互いに寄り添い、やがて一つになって、完全な調和を生む、その道程にある事は間違いないだろう。

今という瞬間と、過去、そして未来が一瞬にしてつながった、川辺の道を進みながら、そんなことを思った。

2014年1月6日月曜日

紀元2674年(西暦2014年)の展望



あけましておめでとうございます。
本年もどうぞよろしくお願いします。


紀元2674年の展望を記します。今年は皇紀でいうと2674年にあたります。普段は皇紀を使って生活しているわけではないのですが、時折、「神武天皇が国をおつくりになられてから2670年もたつのだな」と、感慨深い気持ちになります。思想云々でなく、先祖に敬意を表するために、また今ある日本の平和に感謝を捧げるために、今年一年の展望を皇紀により記したいと思います。


紀元2672年(西暦2012年)、紀元2673年(西暦2013年)は多くの人にとって特別な年となりました。「これから世界が変わるかもしれない」と感じるような出来事があったという方も多いかもしれません。去年は特に、「始まりの始まり」と呼べるような年で、様々なことが芽吹いたり、大きく成長する準備をしたり、という一年でした。その特徴を、二年前にさかのぼってお伝えしたいと思います。

紀元2672年(西暦2012年)の終わり頃まで、私たちの世界は一直線の時間軸の中で生活を続けていました。直線的な時間は、私たちの意識が形作る鋳型のようなものです。その鋳型に基づいて現実が形成され、私たちはその現実に沿って生活してきました。つまり、過去と現在が厳密につながった世界を私たちの意識が作り出してその中で生きてきたということです。

紀元2673年(西暦2013年)になって、その直線的な時間の概念がほぐれ始めました。直線的な時間を形成していた鋳型は姿を消し、私たちは自分の好みの時間の概念を構築することが可能になりました。それがきっかけとなって、私たちは自分の思い思いのタイミングと手順で自分の人生のプロセスを進めていけるようになりました。

去年は、今まで瓶の底に沈んで動かなかったような様々な事柄がかき混ぜられて、思いもよらぬ模様が出てきたり、沈殿物が舞い上がって目の前が見えなくなったり、あるいは突然視界が開けていろんな事が明らかになるような一年でした。物事が意外な方向性に進んだり、過去の未解決の出来事を解消する着地点が見えてきたり、本当の自分らしさを垣間見たりするような時期だったと思います。いろんな体験を通じてだんだんと自分自身のフィールドが明らかになってくる、そんな一年でした。

紀元2674年(西暦2014年)は、しっかりと自分の本来のあり方を見据える年、また、自分のやりたいことをどんどん進めていく年になるでしょう。去年一年間で経験したこと、やってきたことは自分の潜在的な能力と関わりがあったり、自分らしさを発揮するために必要なデトックスのようなプロセスだったかもしれません。今年は、それらがきっかけとなって生じた変化が自分の奥深くに根付き、それを外界との関わりの中で表現して、さらに安定した状態に持っていく時期になるでしょう。

直線的な時間の流れはいっそう弱まるので、不思議な体験をしたり、別の世界に行って戻ってくるというような体験をする人も増えてきます。別の世界、並行宇宙はこれまでも今もずっと存在していますが、これまでの時間の概念がシフトすることで、異次元間の移動がより簡単に行われるようになるのです。この現象については、まだ詳しく解明されていない部分がありますから、たとえこのような体験をしても、どこからも納得のいく説明が得られないかもしれません。しかし、たとえその現象を理論的に理解できなくても、その体験に感謝をすることで、自分自身の人生におけるプロセスは大きく前進することになるでしょう。

今年は、「人は常に今を選択している」というフレーズが、より現実味を帯びてくる一年でもあります。選択することで、今の世界に存在しているということがよりはっきりと認識されるような出来事が多く起きるでしょう。そして、自らの選択を変えることで、世界を変えることができるということも、多くの人にとって明らかな事実となってくるでしょう。

特に今年の後半には、これまでの常識が覆されるようなこともあるかもしれません。それは、新たな可能性の一つとして提示されていますが、大切なことは、そのようなことが実現することで、そうでない現実が消滅するということではなく、可能性の一つとしてすべての選択肢が、あるいは別の選択によって導かれる幾千もの宇宙が同時に存在し続けるということです。

これは、可能性が広がることで自由が多くなるということでもありますし、多様性の表れであり、人間一人一人が許容する世界の広がりでもあります。二元的なマインドはどちらかを消去しようとするかもしれませんが、そこをぐっとこらえて、両方に存在するスペースを与えた上で、自分自身の本来の選択をし続ければ、自分の心的な領域が広がり、さらにそこで自由な選択をするという素晴らしい体験を得る機会となります。

2月、そして3月は、物事が加速して起きる時期です。そのためにも、1月中は身支度をととのえておくとよいでしょう。その後、4月、5月はややゆっくりになり、夏頃からスピード感が戻ってさらに加速していきます。

今年は、流れがゆっくりしているときには自分自身の身の回りを整理していくのがお勧めです。大きく物事が動くときにその流れに軽々と身を任せる事ができるようになるからです。

夏以降、特に9月からは前半で起きた流れが定着する時期になるでしょう。世界的にさまざまな情報が公開される時期でもあります。その中には驚くべきものもあるかもしれませんが、あまりそうした事柄ばかりに気をとられずに自分の事に注力することで、流れに乗って上昇していく運気を維持することができます。

今年は非常に面白い一年になります。今後何年かの方向性が定まる年になりますから、これまであたためてきたことを思い切って始めるなど、新しいことに挑戦するのによいでしょう。

皆さまにとって素晴らしい一年になりますことを心から願っています。


紀元2674年1月吉日

2013年12月14日土曜日

瞑想における半眼の世界


私が半眼を体験したのは、もう10年以上前のことだが、そのときの感覚は、まるでついさっきのことのように、はっきりと覚えている。瞑想のクラスでは私が半眼に至ったときの技法を教えているが、瞑想は、これをやればこうなる、という直線的な考えの通用しないものである。私が伝える技法は、半眼に至る手法そのものではなく、瞑想を行う上での一つの道しるべとなるようなものだ。

瞑想はそのほかの多くのトレーニングと異なり、後退することがない。行えばその分だけ経験が増し、しばらくやらなかったからといって下手になることはない。経験を積むと、瞑想でしか味わいようのない感動的な瞬間が訪れる。それはなににも代えがたい喜びであり、人間の意識の底知れぬ深さを思い知る瞬間でもある。半眼はその一つである。


その日、私はいつものように、いつもの自分の部屋で、いつもの壁に向かって、目を閉じた。真昼のことだったので部屋は明るく、窓のある左半分は日が差して明るかったように覚えている。目を閉じてすぐにいつもと違うと感じたのは、頭がさえて活発に働き出し、全く瞑想状態に入れそうになかったことだった。そして、目を閉じて一分も経たないうちに、座っていることに飽いてしまい、じりじりと身体を動かしたくなるような感覚になっていた。

全く意に反する始まりだったが、そこで、私は瞑想を安定して続けるためのいつもの技法を使うことにした。身体のどこかの部分で左右を感じてバランスを取り、両方の感覚を手放す。そうすると、身体感覚は希薄になり、自然と自分の中心に意識が集まる。それを繰り返すことで、中心に幾多の点があつまり、しっかりとした軸を形成するようになる。やがて、軸がはっきりとして、身体がぶれなくなり、それは意識が芯の部分に集約されて安定化することにつながる。このプロセスを繰り返していくと、無駄な力が落ちて、瞑想するのにほどよい意識の状態に入っていくことができる。

10カ所ほど、左右のバランスを取り、力を抜いていくと、期待とは裏腹にますます感覚がさえてきた。力が抜けたときに感覚がさえるのは気枯(きがれ=気が枯れること)の逆の状態で、本来は肉体を動かすことに向いているが、一度座ったのだから、今日はこの技法でどこまで行けるかやってみようという気になった。

このプロセスが100カ所を超えると、自分の中心が安定し、ようやく座っているのが楽な状態になってきた。身体の軸は無数の点で構成されて、中心にすとんと力が落ちていて後の部分は脱力していた。しかし、依然として頭はさえていたし、いつもの瞑想とは違った意識の状態を維持していた。

200カ所を超えると、身体は中心を残して感覚が宇宙の中に消えていくようだった。しかしそれでも頭はさえていて、まるで自分が頭と芯だけの生き物になったかのようだった。

そこからさらにプロセスを進め、頭部、顔の左右を細かくとっていった。「もうそろそろやるところがないな。」と思いながら目の周りの筋肉を緩めた瞬間、身体に変化が起きた。

私は、目を閉じていた。つまり、目を閉じて瞑想を始めたし、目を途中で開けることはなかった。が、下から、なにか棒のような突き上げる力が起きてきて、私の上まぶたを、ゆっくりと押し上げていった。目をじっと閉じているのに、まぶたの隙間から光が入ってくるのを感じ、私はほんの一瞬、動揺したが、その先への好奇心からか、意識がすっと小さくなって自分の身体の中から外を眺めているかのように感じたからか、まぶたがゆっくり開いていく様子を静観していた。

下から突き上げる力は衰えず、着実にまぶたを押し上げていく。次第に視界が開けてくるのがわかった。そしてその突き上げは、両目が半分開いたところでぴたりと止まった。

私の眼前には、自分の見慣れた部屋の壁と家具が、緩やかなカーブを描いて遠くに広がっていた。まるで、山の上から魚眼レンズで遙か彼方の町並みを下に眺めているような、そんな光景だった。『なんて美しい光景なんだ』と心から思った。同時に、なんで自分の部屋の見慣れた風景、いつもの壁や家具がこんなに美しいのか、と頭のすみで疑問も浮かんでいた。しかし、自分の感覚は確かに、『なんて美しいんだ』と繰り返していた。

自分はなにか山の頂上にいて、それも身体の内側のなにか奥まったところに引っ込んで、そこから目という光の入る穴を通じて自分の部屋を眺めていた。遠くに広がる壁や家具には、なんだか霞さえかかっているように見える。自分の意識では目はしっかりと閉じていたが、勝手に半分だけ開いた目は、自分が今まで想像もしなかったような美しい世界を映していた。山の上の空気の爽快さと、明るい空の明瞭さと、雲のような霞のようなものがかかったヴィジュアルを、いちどきに味わっているような感覚だった。心は軽く清涼感に満ち、身体は山の上に浮かんでいるようであったが、身体の芯は微動もせず、安定を極めていた。まぶたが止まってからずっと、大きな快感の波が、押し寄せ続けている。この世はこれほどに尊く、美しいのか、と感動し続けた。

その意識の状態はしばらくの間続き、私はその間、遙か彼方に広がる自分の部屋を飽きることなく眺め、その情景が織りなす空気感を満喫していた。

やがて、目はまた閉じていき、瞑想に入り、しばらくしてその瞑想は解かれていった。

まるで空気の綺麗な山を旅して帰ってきたかのように、身体にエナジーがあふれ、心は晴れ晴れとしていた。

目に入るのは、いつもの見慣れた自分の部屋の壁だったが、自分が美しく尊い世界にいるということに初めて気がついた。部屋が美しいから美しいと思うのではなく、本来、この世界は存在するだけで感動的なまでに美しいが、普段はそれを思い出すことなく暮らしているということであり、すべてが地球のグリッドの元に整然と配置されていて、どんなものもそこにあるというだけでその美しさを体現しているのに、私はそれまで二元的な視点でその景色を眺めていたためにその美しさを見いだすことができなかったということがはっきりと理解できた。

この世界に理想郷があるとすれば、私たちはすでにその中にいる。自分でやるべきことがあるとすれば、それは、ただ「現在」を握りしめている手を放すことだ。なぜなら私たちは「現在」を握りしめているようでいて、過去や未来やその他のものも一緒に握りこんでしまっているからだ。「現在」を手放したとき、私たちは本来の姿に立ち戻り、その瞬間に初めてこの世界と一体になる。瞑想はその一助となるだろう。




2013年11月13日水曜日

混沌からみた『今』という奇跡



私が混沌に惹かれ始めたのは、小学生のある夏休み、祖父の家でのことだった。いつもなら朝から森に出かけ、ザリガニ釣りや蝉取りに興じるところだが、その日はなぜか留守番のようなことで家にいることになっていた。庭の池では鯉が泳ぎ、水の音と古いほこらのある日本家屋だった。しばらく探検したりしていたが、そのうちに家の奥の、入ってはいけないといつも言われていた部屋の手前にある書架に、ある本を見つけて、取り出して読みだした。

その本は、固い紙のケースに収まっていて、背表紙には『老子』と書かれていた。

シンプルな挿絵と、一ページごとに原文と訳が交互に連なっている、日本風でありながらアジア的な要素が随所に織り込まれた世界が語るのは、宇宙の話やこの世の理について。その世界観に一目で魅了された。中でも、混沌というコンセプトには、意識がしびれる思いをしたことを覚えている。

混沌、すべての始まりと終わり、すべてがそこにある場所とはいったいどのようなことか、蝉の声と池の水の流れる音を聞きながら、一人畳に寝転んで一つ向こうの宇宙をあれかこれかと探していた。

それから10年後、高校生の夏に、私はごく自然に書店の武術雑誌を手にとり、巻末の武術協会や教室のリストから、最も気功を教えてくれそうな団体に電話をかけて中国武術を習うことになる。

気功への興味は尽きず、さらに10年ほどたって、気功科のある中医大学の日本校に学び、医学的な気功から次第に瞑想的な気功に傾倒していく。卒業後は身体を調整する仕事に就いたが、それでもまだ、混沌の姿を明確には想像することができなかった。

そんなこともあって、実際に混沌にある、という体験をしたときは、感慨深かった。混沌という存在を知ってからずいぶんたって、ようやく混沌をみつけた、という感じだった。

混沌にあることは、純粋な喜びと興奮の入り混じったような体験だ。すべてがそこにあるという安堵と共に、探究の一つの旅を終えたという喜びと、なにか背中がぞくぞくするような興奮とが同時にあったのを覚えている。混沌では、自己の意識がとても希薄で、あらゆる現象、可能性のある事象と過去と未来がすべて一つの瞬間に凝縮された状態で存在している。その凝縮される過程で自己は失われていくが、同時にあらゆる可能性が拓かれていくので、そのプロセスを意図的に押しとどめなければ、そのまま限りなく希薄な自己意識に到達する。

自己は限りなく希薄になるが、失われることはない。混沌のなかであっても、自己は存在する。すべてが同時に存在する場所だが、自己が周囲の事象の軸になっている。

すべての事象を均等に感じれば感じるほど現在の自分、今自分がホールドしている(と思い込んでいる)意識と現実はなくなっていく。自分が自分であると思っていることがなくなっていくプロセスを見つめることは、純粋な喜びといえる。

混沌には、すべての宇宙がそこに含まれている。過去も、未来も、自分の想像しうるすべての可能性と、想像を超えたすべての現象がそこにある。

『今』という意識から混沌を見つめると、すべての事象が『今』という瞬間に凝縮されていて密度が高いように思えるが、実際に混沌から混沌を見るとそこにはあらゆる事象が折り重なるようにして、しかしどれも等距離にフラットに感覚で広がる地平であり、高い密度は感じられず、すべての可能性に手が届く、自由な意識の源のようである。

混沌という意識の拡大を体験することは、混沌という無限の可能性のフィールドに戻っていく、という事であるとも言える。

つまり、『今』と思っている現在の自分は元来、混沌の中に含まれていて、自分の意識は混沌の中から連続した『今』を取り出して時間軸に沿わせて順序よく体験しているということでもあるのではないだろうか。

混沌とワンネスは全く違った体験であり、その二つを同一視することはできない。ワンネスはエクスタシーそのものであり統合の頂点であるが、混沌はすべてがそこにただ存在する、という限りなくフラットな状態で、そこで意識の出発地点、存在の原点を体験することができる。ワンネスでは自己が拡大するが、失われることはない。それも混沌とワンネスとの大きな違いかもしれない。

混沌には一切の境がない。過去も未来も、あらゆるアクションとそれに付帯するすべての過去と未来の可能性が、膨大な数の事象としてそこに並列に存在している。

混沌は混沌としているものと思い込んでいたが、実際に混沌にあって、意識を微動だにせずにただそこにとどまっていると、むしろすべてが整然としていた。あらゆる可能性のある事象は自分から等距離にあり、そのどれを選ぶこともできる。

混沌にある状態でほんの少しでも意識を動かすと、自分の意識から同じ距離にあるすべての事象が変化する。人間の可能性はすべてそこにあるが、自分のアクションに応じて、「近い可能性」というのが変化して手の届くところに配列される、というような事が起こる。自分の選択、自分の意識の変化は確実に現実に起こりうる事象に影響を与えていて、その変化は自分の動きが激しくなればなるほど、大きくなっていく。混沌で忙しく意識を動かすことは、まるで幾万枚の画像が早送りで自分の周囲を取り巻いているような感覚であり、それは、混沌(カオス=Chaos)とよばれる雰囲気に似ていると言えるかもしれない。そして、このこともまた人間の意識が現実に与える影響の確かさを表しているように思える。

私たちはもともと、混沌にいたわけであるから、そこからどんな事象を持ってくることができる。私たちの選択は自由意思によっている。昔そこにいたということでもなく、昔も今も選択を続けているということでもない。すべては今、起きている。すべての事象が今この瞬間に起きているということが、人類のこれからの可能性を開く鍵になるのだと思う。私たちには、本来、『今』しかないのである。『今』と共にある事でしか、過去も未来も定義することができない。

混沌は美しい。整然として、一部のすきもない。すべての事象が完璧なバランスで、私たちの考える次元を超越した配列で存在している。そこから私たちは自由意思で自分の『今』を選んでいる。私たちの『今』の後ろには、すべての過去と未来とそれに付帯するあらゆる可能性が控えている。その美しさは、圧倒的であり、その整合性は、唯一無比である。こうして幾十億もの人が、一人一人の『今』を携えて、同じ一つのフィールドを共有していることは、類い希な現象のように思える。混沌に意思があったらきっと混沌自身も、「地球の方ではずいぶん珍しいことが起きている」と思っているに違いない。それでも、今も昔も未来も本来は『今』にしか起きていないわけだから、混沌は私たちがどのような選択をしても、どのような状況にあっても混沌として存在し続ける。『今』が存在する限りは。

この奇跡的な『今』に感謝を捧げる。