2014年1月6日月曜日

紀元2674年(西暦2014年)の展望



あけましておめでとうございます。
本年もどうぞよろしくお願いします。


紀元2674年の展望を記します。今年は皇紀でいうと2674年にあたります。普段は皇紀を使って生活しているわけではないのですが、時折、「神武天皇が国をおつくりになられてから2670年もたつのだな」と、感慨深い気持ちになります。思想云々でなく、先祖に敬意を表するために、また今ある日本の平和に感謝を捧げるために、今年一年の展望を皇紀により記したいと思います。


紀元2672年(西暦2012年)、紀元2673年(西暦2013年)は多くの人にとって特別な年となりました。「これから世界が変わるかもしれない」と感じるような出来事があったという方も多いかもしれません。去年は特に、「始まりの始まり」と呼べるような年で、様々なことが芽吹いたり、大きく成長する準備をしたり、という一年でした。その特徴を、二年前にさかのぼってお伝えしたいと思います。

紀元2672年(西暦2012年)の終わり頃まで、私たちの世界は一直線の時間軸の中で生活を続けていました。直線的な時間は、私たちの意識が形作る鋳型のようなものです。その鋳型に基づいて現実が形成され、私たちはその現実に沿って生活してきました。つまり、過去と現在が厳密につながった世界を私たちの意識が作り出してその中で生きてきたということです。

紀元2673年(西暦2013年)になって、その直線的な時間の概念がほぐれ始めました。直線的な時間を形成していた鋳型は姿を消し、私たちは自分の好みの時間の概念を構築することが可能になりました。それがきっかけとなって、私たちは自分の思い思いのタイミングと手順で自分の人生のプロセスを進めていけるようになりました。

去年は、今まで瓶の底に沈んで動かなかったような様々な事柄がかき混ぜられて、思いもよらぬ模様が出てきたり、沈殿物が舞い上がって目の前が見えなくなったり、あるいは突然視界が開けていろんな事が明らかになるような一年でした。物事が意外な方向性に進んだり、過去の未解決の出来事を解消する着地点が見えてきたり、本当の自分らしさを垣間見たりするような時期だったと思います。いろんな体験を通じてだんだんと自分自身のフィールドが明らかになってくる、そんな一年でした。

紀元2674年(西暦2014年)は、しっかりと自分の本来のあり方を見据える年、また、自分のやりたいことをどんどん進めていく年になるでしょう。去年一年間で経験したこと、やってきたことは自分の潜在的な能力と関わりがあったり、自分らしさを発揮するために必要なデトックスのようなプロセスだったかもしれません。今年は、それらがきっかけとなって生じた変化が自分の奥深くに根付き、それを外界との関わりの中で表現して、さらに安定した状態に持っていく時期になるでしょう。

直線的な時間の流れはいっそう弱まるので、不思議な体験をしたり、別の世界に行って戻ってくるというような体験をする人も増えてきます。別の世界、並行宇宙はこれまでも今もずっと存在していますが、これまでの時間の概念がシフトすることで、異次元間の移動がより簡単に行われるようになるのです。この現象については、まだ詳しく解明されていない部分がありますから、たとえこのような体験をしても、どこからも納得のいく説明が得られないかもしれません。しかし、たとえその現象を理論的に理解できなくても、その体験に感謝をすることで、自分自身の人生におけるプロセスは大きく前進することになるでしょう。

今年は、「人は常に今を選択している」というフレーズが、より現実味を帯びてくる一年でもあります。選択することで、今の世界に存在しているということがよりはっきりと認識されるような出来事が多く起きるでしょう。そして、自らの選択を変えることで、世界を変えることができるということも、多くの人にとって明らかな事実となってくるでしょう。

特に今年の後半には、これまでの常識が覆されるようなこともあるかもしれません。それは、新たな可能性の一つとして提示されていますが、大切なことは、そのようなことが実現することで、そうでない現実が消滅するということではなく、可能性の一つとしてすべての選択肢が、あるいは別の選択によって導かれる幾千もの宇宙が同時に存在し続けるということです。

これは、可能性が広がることで自由が多くなるということでもありますし、多様性の表れであり、人間一人一人が許容する世界の広がりでもあります。二元的なマインドはどちらかを消去しようとするかもしれませんが、そこをぐっとこらえて、両方に存在するスペースを与えた上で、自分自身の本来の選択をし続ければ、自分の心的な領域が広がり、さらにそこで自由な選択をするという素晴らしい体験を得る機会となります。

2月、そして3月は、物事が加速して起きる時期です。そのためにも、1月中は身支度をととのえておくとよいでしょう。その後、4月、5月はややゆっくりになり、夏頃からスピード感が戻ってさらに加速していきます。

今年は、流れがゆっくりしているときには自分自身の身の回りを整理していくのがお勧めです。大きく物事が動くときにその流れに軽々と身を任せる事ができるようになるからです。

夏以降、特に9月からは前半で起きた流れが定着する時期になるでしょう。世界的にさまざまな情報が公開される時期でもあります。その中には驚くべきものもあるかもしれませんが、あまりそうした事柄ばかりに気をとられずに自分の事に注力することで、流れに乗って上昇していく運気を維持することができます。

今年は非常に面白い一年になります。今後何年かの方向性が定まる年になりますから、これまであたためてきたことを思い切って始めるなど、新しいことに挑戦するのによいでしょう。

皆さまにとって素晴らしい一年になりますことを心から願っています。


紀元2674年1月吉日

2013年12月14日土曜日

瞑想における半眼の世界


私が半眼を体験したのは、もう10年以上前のことだが、そのときの感覚は、まるでついさっきのことのように、はっきりと覚えている。瞑想のクラスでは私が半眼に至ったときの技法を教えているが、瞑想は、これをやればこうなる、という直線的な考えの通用しないものである。私が伝える技法は、半眼に至る手法そのものではなく、瞑想を行う上での一つの道しるべとなるようなものだ。

瞑想はそのほかの多くのトレーニングと異なり、後退することがない。行えばその分だけ経験が増し、しばらくやらなかったからといって下手になることはない。経験を積むと、瞑想でしか味わいようのない感動的な瞬間が訪れる。それはなににも代えがたい喜びであり、人間の意識の底知れぬ深さを思い知る瞬間でもある。半眼はその一つである。


その日、私はいつものように、いつもの自分の部屋で、いつもの壁に向かって、目を閉じた。真昼のことだったので部屋は明るく、窓のある左半分は日が差して明るかったように覚えている。目を閉じてすぐにいつもと違うと感じたのは、頭がさえて活発に働き出し、全く瞑想状態に入れそうになかったことだった。そして、目を閉じて一分も経たないうちに、座っていることに飽いてしまい、じりじりと身体を動かしたくなるような感覚になっていた。

全く意に反する始まりだったが、そこで、私は瞑想を安定して続けるためのいつもの技法を使うことにした。身体のどこかの部分で左右を感じてバランスを取り、両方の感覚を手放す。そうすると、身体感覚は希薄になり、自然と自分の中心に意識が集まる。それを繰り返すことで、中心に幾多の点があつまり、しっかりとした軸を形成するようになる。やがて、軸がはっきりとして、身体がぶれなくなり、それは意識が芯の部分に集約されて安定化することにつながる。このプロセスを繰り返していくと、無駄な力が落ちて、瞑想するのにほどよい意識の状態に入っていくことができる。

10カ所ほど、左右のバランスを取り、力を抜いていくと、期待とは裏腹にますます感覚がさえてきた。力が抜けたときに感覚がさえるのは気枯(きがれ=気が枯れること)の逆の状態で、本来は肉体を動かすことに向いているが、一度座ったのだから、今日はこの技法でどこまで行けるかやってみようという気になった。

このプロセスが100カ所を超えると、自分の中心が安定し、ようやく座っているのが楽な状態になってきた。身体の軸は無数の点で構成されて、中心にすとんと力が落ちていて後の部分は脱力していた。しかし、依然として頭はさえていたし、いつもの瞑想とは違った意識の状態を維持していた。

200カ所を超えると、身体は中心を残して感覚が宇宙の中に消えていくようだった。しかしそれでも頭はさえていて、まるで自分が頭と芯だけの生き物になったかのようだった。

そこからさらにプロセスを進め、頭部、顔の左右を細かくとっていった。「もうそろそろやるところがないな。」と思いながら目の周りの筋肉を緩めた瞬間、身体に変化が起きた。

私は、目を閉じていた。つまり、目を閉じて瞑想を始めたし、目を途中で開けることはなかった。が、下から、なにか棒のような突き上げる力が起きてきて、私の上まぶたを、ゆっくりと押し上げていった。目をじっと閉じているのに、まぶたの隙間から光が入ってくるのを感じ、私はほんの一瞬、動揺したが、その先への好奇心からか、意識がすっと小さくなって自分の身体の中から外を眺めているかのように感じたからか、まぶたがゆっくり開いていく様子を静観していた。

下から突き上げる力は衰えず、着実にまぶたを押し上げていく。次第に視界が開けてくるのがわかった。そしてその突き上げは、両目が半分開いたところでぴたりと止まった。

私の眼前には、自分の見慣れた部屋の壁と家具が、緩やかなカーブを描いて遠くに広がっていた。まるで、山の上から魚眼レンズで遙か彼方の町並みを下に眺めているような、そんな光景だった。『なんて美しい光景なんだ』と心から思った。同時に、なんで自分の部屋の見慣れた風景、いつもの壁や家具がこんなに美しいのか、と頭のすみで疑問も浮かんでいた。しかし、自分の感覚は確かに、『なんて美しいんだ』と繰り返していた。

自分はなにか山の頂上にいて、それも身体の内側のなにか奥まったところに引っ込んで、そこから目という光の入る穴を通じて自分の部屋を眺めていた。遠くに広がる壁や家具には、なんだか霞さえかかっているように見える。自分の意識では目はしっかりと閉じていたが、勝手に半分だけ開いた目は、自分が今まで想像もしなかったような美しい世界を映していた。山の上の空気の爽快さと、明るい空の明瞭さと、雲のような霞のようなものがかかったヴィジュアルを、いちどきに味わっているような感覚だった。心は軽く清涼感に満ち、身体は山の上に浮かんでいるようであったが、身体の芯は微動もせず、安定を極めていた。まぶたが止まってからずっと、大きな快感の波が、押し寄せ続けている。この世はこれほどに尊く、美しいのか、と感動し続けた。

その意識の状態はしばらくの間続き、私はその間、遙か彼方に広がる自分の部屋を飽きることなく眺め、その情景が織りなす空気感を満喫していた。

やがて、目はまた閉じていき、瞑想に入り、しばらくしてその瞑想は解かれていった。

まるで空気の綺麗な山を旅して帰ってきたかのように、身体にエナジーがあふれ、心は晴れ晴れとしていた。

目に入るのは、いつもの見慣れた自分の部屋の壁だったが、自分が美しく尊い世界にいるということに初めて気がついた。部屋が美しいから美しいと思うのではなく、本来、この世界は存在するだけで感動的なまでに美しいが、普段はそれを思い出すことなく暮らしているということであり、すべてが地球のグリッドの元に整然と配置されていて、どんなものもそこにあるというだけでその美しさを体現しているのに、私はそれまで二元的な視点でその景色を眺めていたためにその美しさを見いだすことができなかったということがはっきりと理解できた。

この世界に理想郷があるとすれば、私たちはすでにその中にいる。自分でやるべきことがあるとすれば、それは、ただ「現在」を握りしめている手を放すことだ。なぜなら私たちは「現在」を握りしめているようでいて、過去や未来やその他のものも一緒に握りこんでしまっているからだ。「現在」を手放したとき、私たちは本来の姿に立ち戻り、その瞬間に初めてこの世界と一体になる。瞑想はその一助となるだろう。




2013年11月13日水曜日

混沌からみた『今』という奇跡



私が混沌に惹かれ始めたのは、小学生のある夏休み、祖父の家でのことだった。いつもなら朝から森に出かけ、ザリガニ釣りや蝉取りに興じるところだが、その日はなぜか留守番のようなことで家にいることになっていた。庭の池では鯉が泳ぎ、水の音と古いほこらのある日本家屋だった。しばらく探検したりしていたが、そのうちに家の奥の、入ってはいけないといつも言われていた部屋の手前にある書架に、ある本を見つけて、取り出して読みだした。

その本は、固い紙のケースに収まっていて、背表紙には『老子』と書かれていた。

シンプルな挿絵と、一ページごとに原文と訳が交互に連なっている、日本風でありながらアジア的な要素が随所に織り込まれた世界が語るのは、宇宙の話やこの世の理について。その世界観に一目で魅了された。中でも、混沌というコンセプトには、意識がしびれる思いをしたことを覚えている。

混沌、すべての始まりと終わり、すべてがそこにある場所とはいったいどのようなことか、蝉の声と池の水の流れる音を聞きながら、一人畳に寝転んで一つ向こうの宇宙をあれかこれかと探していた。

それから10年後、高校生の夏に、私はごく自然に書店の武術雑誌を手にとり、巻末の武術協会や教室のリストから、最も気功を教えてくれそうな団体に電話をかけて中国武術を習うことになる。

気功への興味は尽きず、さらに10年ほどたって、気功科のある中医大学の日本校に学び、医学的な気功から次第に瞑想的な気功に傾倒していく。卒業後は身体を調整する仕事に就いたが、それでもまだ、混沌の姿を明確には想像することができなかった。

そんなこともあって、実際に混沌にある、という体験をしたときは、感慨深かった。混沌という存在を知ってからずいぶんたって、ようやく混沌をみつけた、という感じだった。

混沌にあることは、純粋な喜びと興奮の入り混じったような体験だ。すべてがそこにあるという安堵と共に、探究の一つの旅を終えたという喜びと、なにか背中がぞくぞくするような興奮とが同時にあったのを覚えている。混沌では、自己の意識がとても希薄で、あらゆる現象、可能性のある事象と過去と未来がすべて一つの瞬間に凝縮された状態で存在している。その凝縮される過程で自己は失われていくが、同時にあらゆる可能性が拓かれていくので、そのプロセスを意図的に押しとどめなければ、そのまま限りなく希薄な自己意識に到達する。

自己は限りなく希薄になるが、失われることはない。混沌のなかであっても、自己は存在する。すべてが同時に存在する場所だが、自己が周囲の事象の軸になっている。

すべての事象を均等に感じれば感じるほど現在の自分、今自分がホールドしている(と思い込んでいる)意識と現実はなくなっていく。自分が自分であると思っていることがなくなっていくプロセスを見つめることは、純粋な喜びといえる。

混沌には、すべての宇宙がそこに含まれている。過去も、未来も、自分の想像しうるすべての可能性と、想像を超えたすべての現象がそこにある。

『今』という意識から混沌を見つめると、すべての事象が『今』という瞬間に凝縮されていて密度が高いように思えるが、実際に混沌から混沌を見るとそこにはあらゆる事象が折り重なるようにして、しかしどれも等距離にフラットに感覚で広がる地平であり、高い密度は感じられず、すべての可能性に手が届く、自由な意識の源のようである。

混沌という意識の拡大を体験することは、混沌という無限の可能性のフィールドに戻っていく、という事であるとも言える。

つまり、『今』と思っている現在の自分は元来、混沌の中に含まれていて、自分の意識は混沌の中から連続した『今』を取り出して時間軸に沿わせて順序よく体験しているということでもあるのではないだろうか。

混沌とワンネスは全く違った体験であり、その二つを同一視することはできない。ワンネスはエクスタシーそのものであり統合の頂点であるが、混沌はすべてがそこにただ存在する、という限りなくフラットな状態で、そこで意識の出発地点、存在の原点を体験することができる。ワンネスでは自己が拡大するが、失われることはない。それも混沌とワンネスとの大きな違いかもしれない。

混沌には一切の境がない。過去も未来も、あらゆるアクションとそれに付帯するすべての過去と未来の可能性が、膨大な数の事象としてそこに並列に存在している。

混沌は混沌としているものと思い込んでいたが、実際に混沌にあって、意識を微動だにせずにただそこにとどまっていると、むしろすべてが整然としていた。あらゆる可能性のある事象は自分から等距離にあり、そのどれを選ぶこともできる。

混沌にある状態でほんの少しでも意識を動かすと、自分の意識から同じ距離にあるすべての事象が変化する。人間の可能性はすべてそこにあるが、自分のアクションに応じて、「近い可能性」というのが変化して手の届くところに配列される、というような事が起こる。自分の選択、自分の意識の変化は確実に現実に起こりうる事象に影響を与えていて、その変化は自分の動きが激しくなればなるほど、大きくなっていく。混沌で忙しく意識を動かすことは、まるで幾万枚の画像が早送りで自分の周囲を取り巻いているような感覚であり、それは、混沌(カオス=Chaos)とよばれる雰囲気に似ていると言えるかもしれない。そして、このこともまた人間の意識が現実に与える影響の確かさを表しているように思える。

私たちはもともと、混沌にいたわけであるから、そこからどんな事象を持ってくることができる。私たちの選択は自由意思によっている。昔そこにいたということでもなく、昔も今も選択を続けているということでもない。すべては今、起きている。すべての事象が今この瞬間に起きているということが、人類のこれからの可能性を開く鍵になるのだと思う。私たちには、本来、『今』しかないのである。『今』と共にある事でしか、過去も未来も定義することができない。

混沌は美しい。整然として、一部のすきもない。すべての事象が完璧なバランスで、私たちの考える次元を超越した配列で存在している。そこから私たちは自由意思で自分の『今』を選んでいる。私たちの『今』の後ろには、すべての過去と未来とそれに付帯するあらゆる可能性が控えている。その美しさは、圧倒的であり、その整合性は、唯一無比である。こうして幾十億もの人が、一人一人の『今』を携えて、同じ一つのフィールドを共有していることは、類い希な現象のように思える。混沌に意思があったらきっと混沌自身も、「地球の方ではずいぶん珍しいことが起きている」と思っているに違いない。それでも、今も昔も未来も本来は『今』にしか起きていないわけだから、混沌は私たちがどのような選択をしても、どのような状況にあっても混沌として存在し続ける。『今』が存在する限りは。

この奇跡的な『今』に感謝を捧げる。



2013年10月14日月曜日

競争の時代の終わり


『早起きは三文の徳』といわれる。これを英語にすると、“Early bird catches the worm. ”「早起きの鳥は虫を捕まえる」となると、ずいぶん昔に教わったように覚えている。しかし、実のところ、私はこの二つが同じようで同じではないのではないかと思っている。
『早起きは三文の徳』ということわざには、その語源についていろいろな説があり、定まらない。それが定まらないのに、こんなことを主張するのはおかしなことかもしれないが、純粋に、日本語の話し手としての感覚でこのことわざを見つめたときに、受け取れるイメージは、早起きした人は三文の徳となるが、早起きしなかった人については言及していないということ。ここでのフォーカスは、「早起きした人」だけである。一方、そのことわざを英語で表現した場合の、“Early bird catches the worm. ”「早起きの鳥は虫を捕まえる」になると、趣が若干異なる。早起きした鳥は虫を捕まえられるが、早起きしなかった鳥は、虫が捕まえられない、ということが暗示されているように私には思える。つまり、日本語のことわざでは、早起きした人は全員が三文の徳が得られる、となり、それ以外の人については何も言及がない、と感じられるが、英語の方の、早起きの鳥は、全員が虫を捕まえ、そうでない鳥は捕まえられない、というイメージがつきまとう。私の考えや言語感覚が浅い故の感じ方かもしれないが、何となく、日本語の表現は牧歌的で、英語の方は競争の原理からくる戒めのようなものが込められているような気がしてならない。

人間の社会は競争社会といわれる。しかし、江戸時代、そんなことを言った人、そんな風に思って生活していた人はどれだけいただろうか。江戸時代は、町もきれいで、住む人は町人も武士も農民も割合と幸せに暮らしていたと伝えらている。もちろん、当時は寿命も短く、災害などもあって大変なこともあったであろうが、私が想像するに、一般的な町人の暮らしは割合とのんびりしていたのではないかと思う。そんな日本でいつからこんなに競争があふれ、声高に勝つこと、相手を打ち負かすことの重要性が叫ばれるようになったのだろうか。世界的に資本主義が広まり、生活が現代的になったので、それに賛同する全員がお互いに競争するようになったからなのか、あるいは、世界的な流れであった帝国主義がアジアに寄せてくるようになって、国を倒したり倒されたりという競争を至上とする主義が台頭したからかもしれない。

日本人は自分のことをナンバーワンとはいわない。でも他の人にナンバーワンといわれると喜ぶ、という記事を見たことがある。ここでは、日本人の内気な態度や、陰では一番を願っているのにそれをはっきり言わない曖昧さのようなものが取り上げられていたが、そもそも、わざわざ競争めいた土俵に上ったり上らされたりして、優劣を判断すること自体が、日本人の感覚に欠如しているものなのかもしれない。

個人的に、人間にとって競争は必要ないと感じる。競争の行き着く先は、戦争かもしれないと思う。本来、生命の存続において重要なのは日々、満ち足りて生活することだが、競争の心理において重要なのは、自分が満足することではなく、誰よりも一番になることだからだ。競争の世界においては、それに参加しないと、他の誰かが一番になり、一番にならなかったものは大なり小なり虐げられるという恐怖感をあおられる仕組みができあがっている。社会にとって、恐怖感をあおられる仕組みは必要かといわれると、それはいらないということになるだろう。ある段階においては、同じ分野で探究するもの同士が切磋琢磨することが社会にとってプラスの刺激になることがあるかもしれない。しかし、それは一時的なことで、常に誰かと切磋琢磨を続けて他を引き離していないといつか虐げられるという仕組みは必要ないように思う。

日本人、外国人を問わず、私がこれまで会ってきた優れた人たちは、決して他人より優れることを目的としたり、トップになろうと努力を続けてきた人たちではなかった。むしろ他を気にせず、常にマイペースで、淡々と自分の思うところを続けてきている人が、特定の分野で大きな成果を上げ、社会に新しい技術や概念などの恩恵をもたらしているように思う。

そろそろ、競争の時代は終わりにしても良いのではないだろうか。熱心に探究を続ければ、いつの間にか他に先んじていることもあるだろうし、また別の時には他が先を行くこともあるに違いない。しかし、そのちょっとした前後によって、お互いが影響を受け、探究を続ける意識が少しでもそがれるようであれば、人生を無駄にするようなものである。人生には、他人より優れているかどうかを気にするほどの時間はない。ただ純粋な探究のみが、自分を本質へと導いてくれる、と、そんな風に思う。


2013年8月20日火曜日

サプリメント摂ってみました



10年くらい前はビタミン類の錠剤や、液体の植物性ミネラルなどを飲んだりしていましたが、数年前から全く摂らなくなっていたサプリメント。この夏に杏林予防医学研究所の山田豊文先生の講義をきいてから、もう一度、認識を改めて摂ってみようという気になりました。

山田先生が特に摂ることを勧めていたのがマグネシウムと亜鉛です。マグネシウムは食物から摂るのが理想ですが現在の農法ではマグネシウムが少なくなりがちだそうで、ただでさえ体内に取り入れにくいミネラルなので、不足することがとても多いとのこと。窒素、リン、カリウムを化学肥料として土壌に加えてきたことによって野菜や畜産物に含まれる栄養素や微量ミネラルのバランスが著しく変化しているのはよく知られていますが、マグネシウムがそんなに足りないことになっているとは驚きでした。

マグネシウムは体内のカルシウム量を調整する役割がありますが、吸収されにくいため、適量を摂り続ける必要があるそうです。骨を強く保つのにもマグネシウムは必須の栄養素なので、それを経口で摂ってみることにしました。

亜鉛もまた、体内で足りなくなりやすいミネラルだそうです。亜鉛の欠乏により味蕾の働きが低下して味覚が鈍るということがよく言われますが、放射性物質の排出にも関わっているそうなので、足りなくならないように十分な供給を確保することが重要だそうです。また、亜鉛はDNAを作る際の材料となる物質なので、細胞を新しく生成するのに欠かせないミネラルでもあります。

まず、杏林予防医学研究所でマグネシウムスプレーと亜鉛酵母を購入して一ヶ月あまり飲んでみました。それまでも特に体調が悪いということもなかったのですが、飲み始めて1週間で体調はさらに良くなって、良い状態が安定するようになりました。

4週間すると体調が著しく改善し、この半年間で初めてゼロ睡眠と極小食で丸二日間過ごすことが出来ました。ゼロ睡眠とは、全く眠らずに過ごすことで、バイタリティに溢れ、体調のとても良い時、なおかつ心が落ち着いて精神活動が充実している時にそのような状態になります。この意識の状態になると、食事の量がごく僅かになり、果実を少しと穀物を一口、あとは水だけ、というような献立で一日すごす事になります。睡眠を我慢するわけでもなく、食事を制限するわけでもなく、ただ活動を続けていくと自然にその状態になるのです。

一ヶ月でかなり良好な結果が得られたので、マグネシウムと亜鉛のセットにタウリンも加えることにしました。いつも食品やお茶などを購入しているiHerbでタウリンを探し、ベジカプセル入りのものがあったのでそれを購入。加えてマグネシウムと亜鉛の錠剤も別の会社の製品を求めました。

アメリカのサプリメントなので予想通りの大きさでした。マルチビタミンなどを飲んでいた時を懐かしみながら、ここ10日ほどは新しい組み合わせでマグネシウムと亜鉛、そしてタウリンを飲んでいます。体調はよく、意識もクリアなので、当面はこれで行こうと思います。

タウリンは、胆汁酸の分泌を促進し、肝機能を強化する効果があると言われています。今年は、肝に注目していることもあり、そのデトックスや機能の強化を目指しているので、タウリンはこの時期に摂るのに良いと判断しました。タウリンが多く含まれている食物は、牡蠣、イカ、タコ、エビ、ホタテと、どれも私がここ15年食べていないものばかりですので、そういった意味でも、サプリメントで補給するのが良かったのかもしれません。

サプリメントの摂取で気になるのが、摂り過ぎや副作用です。亜鉛とタウリンの摂取については、多すぎる分は排出されてしまい、特に副作用もなく、問題ないようです。マグネシウムは腎臓の機能が低下している場合には、体内に必要量以上のマグネシウムが残留してしまう可能性があるので注意が必要とのことです。あとは、ジギタリス製剤を服用している時にマグネシウムを摂取するとジギタリスの吸収が減じられるということがあるそうです。

後は、このセットをいつまで飲み続けるのかということです。体調は、意識の状態によって変化します。良い状態で安定すると、それを意識が記憶して、その良い状態を現実化させようと意識が働くようになります。それがうまく働けば、サプリメントを摂らなくても、同じような良い状態を維持することができるでしょう。これから先、何ヶ月飲み続けるのかは、まだわかりませんが、除々に量を減らしていったり、意識を調整して飲まずにその状態を得られるようにしていきたいと思います。



2013年7月2日火曜日

人生は祈りと探求

人生には祈りと探求だけが存在する。

祈りは願いであり、希望であり、人を駆り立て、理想に向かわせるものだ。自分に対する願い、人に対する想い、社会に対する考えも、あなたの祈りとなる。あなたは日々、祈っている。世界平和のため、母親や子供、家族の健康のため、いつか出会うパートナーのため、自分の生活のために祈りを捧げ、様々な希望をもって毎日を過ごしている。

そして、あなたのあらゆる行動は探求である。朝起きて、歯を磨き、着替えて、ご飯を食べる、同じようなことを毎日しているようで、この宇宙ではそれらは初めて起きている。歯を毎日磨くことは探求であり、毎朝スムージーを作ることは探求である。人生のあらゆる活動は新しい探求である。何かにチャレンジして失敗し、また立ち上がって挑戦することも探求であるし、一日中歩きまわってようやく家に帰り着き、ぐったりしてソファに倒れこんで甘美な夢をみるのもまた探求である。

人と会って食事を楽しんだり、お茶を飲んだりすることも、この宇宙では初めて起きる出来事である。その相手が同じで、同じ店で、同じ曜日であっても、この宇宙ではその出来事は宇宙ができてから初めて起きる出来事なのだ。そして、それはあなたにとっても、その相手にとっても、人生における探求の一歩を共に踏み出しているということだ。

最近は、『成功』という言葉がよく聞かれるようになった。成功するための法則を謳うものまで登場した。でも、本当にそれが存在するのか考えてほしい。成功は幻想だ。人生が大きな幻想であることにさらに輪をかけた幻想だ。人生には祈りと探求しか存在しない。その人生、祈りと探求を日々行う私たちを取り巻く現実でさえも幻想なのに、さらに別の幻想に手を出そうとするのは、雲を追いかけてハリボテの崖から飛び降りるようなものだ。

もしあなたが孫悟空なら、雲は自然とあなたのところにやってくる。雲に乗って空を駆けるために、雲を追いかけて崖から落ちるほど滑稽な話はない。

成功はこの世には存在しない。誰かがその言葉を使って、あたかもそれが存在しているかのように見せかけているだけだ。『成功するには・・・』という言葉に惹きつけられた時、あなたは人生を失いかけている。

人生には、祈りと、探求だけが存在する。あなたにとっての祈りとは何か、あなたにとっての探求とは何なのか、それだけにフォーカスしていれば、あなたの道は平で真っ直ぐなものになる。真っ直ぐな道は、あなたを最も早く、自分自身の場所、自分自身で在り続けるフィールドに送り届けてくれる。自分自身であることこそが、人生の歓びのエッセンスを味わう入り口となる。自分自身である時、あなたは自由だ。自分自身である時、あなたはシンプルで、力強く、創造性に満ちている。あるべき生命の姿がそこにはある。

祈りを捧げよう。そして探求の旅に出よう。


毎日は新しく、この世界は宇宙の始まりから終わりまで広がっている。



2013年5月20日月曜日

完全美脚プログラム始めます

コアフロー・ボディワークスでは、もうすぐMANACOAとして統合される姉妹サロン、TOTOKAとコラボレーションした美脚プログラムを始めます。

<完全美脚プログラム 全6回 合計900分 料金108,000円→98,000円>
・5回のコアフローボディワークスのセッション
・1回のTOTOKA(サフィ担当)によるオイルトリートメント
全6回のセッションには、お体の施術、呼吸法や美脚維持のためのレッスン、美しい歩き方の指導、自宅でもできる調整法などが含まれています。プログラムは、3ヶ月から5ヶ月以内に完了するのが理想的です。スケジュールにつきましてはご相談を承りますのでご連絡ください。

1回ごとにお申込みいただく場合のセッション代金は18,000円となります。


ご相談、ご予約は、info@coreflow.jp(トミタ)もしくは、totokainfo@gmail.com(サフィ)までご連絡ください。セッション日程につきましては、下記のリンクを御覧ください。

コアフローボディワークス
http://www.coreflow.jp/contact_schedule/

TOTOKA
ニュース&日程



TOTOKAのセラピスト、サフィとは、普段から『美しさと強さの共存』についてよく話しています。美しい体でありながら強くあることは、この世界の多くの人が望むことだと思います。私自身は、人間の骨格が本来持っている美しさが最大限に発揮された時には、それと同時に肉体的な強さも発現する、というふうに考えています。

チーターなどの美しい野生動物の体には無駄がなく、脚などは細いくらいに感じますが、走るときには力強い動きで地球を蹴って進みます。人間の体も、そのDNAが持つ最も自然な美しい形、そして進化的な体型にあることで、その能力を最大限に発揮できるのではないかと思います。

私の考える美脚とは、その人の骨格が本来持っている自然な美しさと、なめらかで力強い動きを実現する機能美を兼ねそなえた脚です。骨格の美しさと肉体的な機能、この2つを最大限に引き出すためのプログラムを今回はご紹介します。

美しい脚を実現するために最も重要なことは、骨盤と後頭部の配置と、体幹と股関節のバランスです。骨盤と後頭部が本来の骨格に見合った位置関係にあり、体幹と股関節が適度な緊張と弛緩のバランスで保たれている状態になって初めて美脚が実現します。

これには立っている時の重心の位置や、歩いたり動いたりするときの筋肉の使い方、力の適度な抜き方などが関係しています。

骨盤と頭蓋骨の角度と前後の位置関係を修正することで肩こりや腰痛、内臓の調子にもよい影響があります。頭蓋骨の角度は気分にも影響しますから、気分にむらがあるという場合は特に修正すると良いと思います。理想的には、意識しなくても自然に適切な角度となることですので、頭蓋骨を支える筋肉が柔らかくあるように肩甲骨や首の筋肉をほぐしていき、本来の骨格の姿になるように整えます。

私がこれまで何千人というお体を見てきて、下半身の健康という面で絶対に外せないと感じることが、体幹と股関節のバランスです。体幹は短く円筒形気味に、そして股関節はゆるやかに外側にひらく、というのが基本ですが、人によって骨格の特徴があり、筋肉の付き方や生活上の癖などがありますから、その度合いや実現するためのステップを一人ひとりに合った形でアドバイスしていきます。

骨盤と頭蓋骨、そして股関節のバランスが整うと、後は自動的に脚が細くなり、たくさん歩いても疲れにくくなります。そして、自然にヒップアップも起こります。あるべきところにヒップがある、そんな体に変わっていきます。高いところに引き締まったヒップがいつの間にか出来上がり、後ろ姿に自信が持てるようになります。

完全美脚プログラムでは、骨盤の状態を本来の骨格の位置に戻し、大腿部や膝、足首の緊張を解いて体幹と股関節のバランスを徹底的に整えることで、よりリラックスして、伸びやかな脚をつくっていきます。そして、どうしたらスッキリとした状態の脚を維持できるか、実生活の中で役立つシンプルで効果的なストレッチや運動法をお教えします。人間の体は、常に変化しています。その変化を感じ取りながら、無理なく自分本来の骨格的な美しさに近づくメソッドを提供します。

美しい脚は、脚を施術するだけでは得ることができないと私は考えています。骨盤から肩甲骨までの体幹を構成する部位の状態とバランス脚の形や大きさに影響しますし、肋骨の位置や呼吸の深さも、体幹の安定性に大きく関わっている要素です。私のこれまでの経験では、呼吸の浅い方は、気の巡りが緩慢で、体の中に水分がたまりやすく、それは脚にも影響していることが多いです。このプログラムでは、体内の気の巡りを活性化して美脚をさらに内側から磨き上げるように、しっかりした体幹を作るための呼吸法と、美脚をさらに美しく見せるための歩き方を指導します。

完全美脚プログラムのセッションは全部で6回あります。はじめの5回のセッションで、骨盤、骨格の調整などお体への施術と、美脚の仕組みや呼吸法、歩き方の説明と運動法のトレーニングを行います。お体の調整は、コアフローセラピーとトーニングを使って行いますので、ほとんど痛みを感じることは無いと思います。ただし、足首の調整、肩甲骨の調整を行う時のみ、筋肉の緊張が強い場合には痛みがあるかもしれません。その時にはご希望に合わせて手技の強さを調整します。セッションとセッションの間は最低3日間、空けていただき、2回ずつのセットを3回、合計6回を3ヶ月から5ヶ月以内に受けていただくのが理想的です。

プログラムの最後、6つ目のセッションはTOTOKAによるオイルトリートメントです。脚を中心に全身をしっかりと揉みほぐして内側と外側から磨き上げます。肉体と精神、その外側も内側も、全ての要素に調和がもたらされるように特別なトリートメントが行われます。